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時代とOKI

第4回 戦時経済の中で

1945年(昭和20年)8月15日の終戦を迎えるまで、日本は15年間にわたって戦時下にありました。その間、製造業も軍の管理下に置かれ、軍のための生産が主流になっていました。その中でOKIは、研究開発と技術力の養成こそが生き残る道と信じ、陸・海軍の要請を最優先しながらも、将来に生きる技術の蓄積に腐心していました。

総合メーカーに向けた胎動


『沖電気時報』創刊号

1931(昭和6年)1月、OKIは創業50周年という大きな節目を記念し、2つの出版事業を企画しました。1つは創業者の軌跡を振り返る『沖牙太郎』(1932年刊行)。もう1つは、研究開発と新製品の紹介を目的とした技術誌『沖電気時報』(1934年創刊)です。創業以来築き上げてきた「技術の沖」の発展を期しての企画でした。

創刊号に当たって、押田 三郎取締役技師長(後に常務・専務)は、「一日怠れば千日の悔いを残す」と、研究開発の重要性を呼び掛けています。『沖電気時報』の創刊は、研究開発体制の基盤強化の一環であり、総合メーカーへの胎動を意味していたといえます。そのことを象徴しているのが、創刊と同年に実施された組織改正です。研究部と技術部を独立させ、新設された研究部部長には、当時、弱電研究の第一人者であった東北大学電気音響学の権威、小林 勝一郎助教授をスカウト。小林部長のもと、無線機器や水測機器の開発をはじめ、印刷電信機の実用化、搬送装置の調査・研究にも着手していきます。一方、OKIの前向きな決意とは裏腹に、日本はこの年、戦争の泥沼に踏み込んでいくことになります。

軍事体制の中での開発


大型短波電信受信機の第1号機

軍事態勢が強化される中で、OKIの生産も軍需への対応が色濃くなっていきます。通信機器は戦争に欠かせないツールであり、それを国産で提供できるOKIに軍部が高い関心を示したからです。

OKIは陸・海軍の要求で、主として無線機器と水測機器の製作に当たります。無線機器に関しては、当初OKIは他社に遅れをとっていました。しかし、1925(大正14)年、国策会社日本無線電信が設立。OKIの内田 嘉吉顧問が社長に就任すると、短波受信機の製作を受注します。技術指導も受けられたため、社内の技術者養成は促進。一号機からの高評価をはずみに無線機器生産は本格化しました1935年(昭和10年)には無線部の新設に併せて体制を強化するなど、戦時における無線需要に貢献する立場となっていきます。

水測機器分野においては、超音波による水中での通信を研究していたOKIに目をつけた海軍技術研究所から、1936年(昭和11年)、主に潜水艦探知に使う水中聴音機の国産化を依頼されます。初の水測機器生産でした。これを皮切りに目標物からの音をとらえる聴音機、超音波を利用して艦船の位置・方向を探る水中探信機の開発に当たるなど、注文は殺到。ここで蓄積された技術は戦後、魚群探知機や河川、湖沼、ダムの精密測量用測深機などの開発に活かされることとなります。

戦後に向けてのシーズを創造


列車編成の指令に用いた操車場用印刷電信機

研究部は小林部長のもと自主的な活動を続けていました。それを経営面からバックアップしたのが、前出の押田 三郎取締役技師長でした。彼は軍需を最優先としながらも、戦後の発展につながる技術の芽を育てたいと真摯に考えていました。その結果、動乱の時期にも関わらず、さまざまな研究のシーズ(種子)が蒔かれ、戦後になって開花していったのです。

戦前の『沖電気時報』を紐解いてみると、たとえば電話機では送話機の感度を左右する論文が寄せられており、これが戦後の「四号形電話機」の開発につながっています。無線通信に関する論文も少なくありません。無線研究は主に陸・海軍からの要請でしたが、戦後には警察・消防や自治体の行政無線、船舶・タクシーなどの業務無線、さらに多重無線の分野に活かされることとなります。また、1935年(昭和10年)の『沖電気時報』には、テレタイプから発展してデータ端末へと進む研究の礎として、印刷電信機の研究論文が掲載されています。試作品開発も順調に経過していましたが、日米開戦を前に研究は途上で中断されます。これは軍用品以外を生産する余裕がなくなったためでした。

とはいえ、これらの技術が戦後へと継承され、やがてデータ端末機器や搬送技術の事業化につながります。社内のどこかで誰かが研究を続け、技術の水脈を絶やさなかった事実は、戦後のOKIの成長を支える大きなバックボーンとなったのです。

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